資料NO. :  39
資料名  : 「無言館」訪問記
制作者  : R.M.さん(千葉県連絡会)
制作日  : 2004年4月16日
 4月6日(火)、長野県上田市にある「無言館」という美術館を訪れました。
  すでにご存知の方もあろうかと思いますが、半世紀前のアジア・太平洋戦争で命を落とした画学生の遺作・遺品を展示した美術館で、館主の窪島誠一郎氏が画家の野見山暁治氏とともに、全国の戦没画学生の遺族を訪ね回って集めてきた作品が収められています。

 前々からいつかは行こうと思いつつ、なかなか時間がとれなかったのですが、今まさに自衛隊が「戦地」イラクへ派兵されているというときに、平和への思いを新たにする意味を込めて、信州上田の地に足を運んできました。

 上田駅から上田交通別所線というローカル電車で約20分、塩田町駅で降りて、のどかな田園風景を見ながら30分ほど歩いた丘の上に、無言館はあります。
 窪島氏が「墓場」をイメージして作ったというコンクリート打ちっぱなしの建物は、教会や僧院のようでもあり、見るからに荘厳なものです。
 普通の美術館にはある「入館券うりば」などありません。これまた重厚な木の扉を開けると、咳払いひとつ許さぬような静けさと厳粛さが支配するなか、スポットライトにぼんやり照らされた戦没画学生の作品や、戦地からの手紙、画材などが展示されています。建物の中もコンクリート壁ですから、本当に小さな咳払いだけでも響き渡り、「静かに見なさい」と叱られたような感じがしました。

 多くの作品が家族や恋人、風景を描いたものです。私は美術のことには疎いので、これらの作品がどれほどの芸術的価値を有しているのかについては、評価の下しようがありません。窪島氏の、作品を見たときの第一印象は未熟、未完成というものだったようです。

 しかし、「未熟、未完成」だとしても、無理のないことだろうと思います。
作者たちは、戦争に駆り出されることさえなければ、さらに美術家としての経験を積んで、すばらしい作品を世に送り出すことになろう人々だったかも知れないのですから。

 「あと5分、10分、この絵を描きつづけていたい・・・外では出征兵士を見送る日の丸の小旗が・・・生きて帰ってきたら必ずこの絵の続きを描くから・・・・しかし、帰ってこれなかった」絵描きとして自分の生きた「あかし」を残しておきたいという思い、そして戦争によって絵筆を無理矢理取り上げられる無念の思いを作品に残して戦地へ向かい、侵略戦争の只中で死んでいった画学生のエピソードです。

 これらの作品を見て思うべきはただ一つ、「こんな歴史を二度と繰り返してはいけない」ということです。戦争への道を許さないという気持ちを新たにして、鑑賞を終えました。鑑賞料は、出場するときに数百円の「志」を納めるという「随意制」となっています。

 さて、「無言館」への行きかえりに利用した別所線。ここもご多分に漏れず厳しい経営環境のようで、利用促進を訴えるポスターが、車内や駅にたくさん貼られていました。ただ、見る限りそれなりの利用者があり、地域の足として、重要な役割を果たしていることは間違いありません。公共交通重視の政策の徹底が求められると思います。

 さらに、上田からは長野新幹線に乗れば東京まで一直線ですが、私はあえて、新幹線開業によりJRから分離された「しなの鉄道」を利用しました。
 もともとは「信越本線」で、沿線にはある程度の人口の張り付きがあるにもかかわらず厳しい経営が続き、田中康夫知事が1日車掌を務めた「なんとなく、クリスタル列車」といった企画列車や、トレイン・アテンダントと呼ばれる案内係を添乗させるといった「アイディア商法」を連発し、2003年度中間期決算でやっと初の黒字を計上するといった状態です。先般の「ダイヤ改定」で九州新幹線が開業、その陰で鹿児島本線が分離されて「肥薩おれんじ鉄道」に移管、早くも前途の厳しさが指摘されています。

 終点、軽井沢に着きました。この先に、もう線路はありません。新幹線開業と同時に、碓氷峠を通る線路が分断されてしまったからです。
確かに東京は近くなりましたが、逆に隣の横川がものすごく遠くなってしまいました。

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掲載:2004/04/20

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